言語的コミュニケーションにおける言葉の意味合いの違いについて
1.言葉を使ったコミュニケーションのズレ
人のコミュニケーションは言葉、表情、態度、スキンシップなど複数の経路を用いて行われていますが、言葉を話せる場合には言葉を介したやりとりが基本になっていると思います。もちろん、感情などは言葉よりも態度の方が相手の本音が表れているように感じられるかもしれませんし、意味のやりとりであっても、言葉だけでなく視覚情報や聴覚情報など、相手が表している情報を総合して相手が伝えようとしていることを理解するわけですが、その人が考えていることを細かく知るためには言葉は欠かせないと思います。
思考した内容を言語化して言葉として他者に伝えることで、非言語的に表すことが難しい内容を伝えることができるのですが、それでもやはり伝えることが難しい内容もあります。たとえば、観念的な内容やある種の概念など抽象的な内容は、言葉の意味するものが異なったり言語化自体が難しかったりするかもしれませんし、あるいは具体的な物であってもイメージする内容が違っていることもあると思います。
個人的な経験ではあるのですが、子どもの頃海外に行く機会があり、行った先でりんごジュースを買ったことがあるのですが、その時出てきたものは青りんごのジュースでした。私にとってりんごと言えば赤いりんごでしたが、その地域の人にとってはりんごと言えば青いりんごで、りんごという言葉からイメージされる物が違うということが印象的でした。
言葉には何らかの意味や内容が付与されているわけですが、どの言葉にどんな意味や内容が付与されているかは人によって違いがあります。微妙な違いであればコミュニケーションに齟齬は起きにくいですが、大きな違いがある場合には、単に話がかみ合わないだけのこともありますし、誤解や言った言わないのトラブルになってしまうこともあるかもしれません。
言葉は色々なことを伝えることができる便利なものではありますが、語彙や文法、言葉の意味や内容の問題によって、自分が伝えようとすることが必ずしも相手に伝わっていないということもあり得ます。
2.言葉と経験
言葉には様々な意味が付与されていて、人によってある言葉がもつ意味はそれぞれ異なります。こうした言葉の意味合いの違いは辞書的に言葉の意味を学ぶだけでは生じにくいように思います。辞書によって意味を学ぶだけでは、知っているか知らないか、覚えているか覚えていないかという違いは生じても、ある言葉のもつ意味そのものが違いうということは生じにくいように思われるからです。
そうすると、ある言葉にどんな意味合いを付与するかという個々人の違いは経験の違いによって説明されるものではないかと思います。人は乳幼児の段階から少しずつ言葉を覚えていきます。同じ文化、似た環境で生活していれば共通点は当然ありますが、具体的な出来事となると全く同じ経験をしているということはないと思います。
たとえば、ニャンニャンやワンワンという言葉を使う子どもは珍しくないですが、それを聞いて猫や犬のことを言っていると考えがちですが、必ずしもそうとは限りません。狸を見てその言葉を使っているかもしれませんし、場合によってはハイハイする子どもを見てその言葉を使っているかもしれません。つまり、同じ言葉を使っているからといって、同じものを見ている(体験している)とは限らないということです。
概念を獲得していくことで、ニャンニャンは猫を、ワンワンは犬を表す言葉として定まっていきますが、それでも猫、犬と聞いて具体的に思い浮かべるイメージは人それぞれ異なっていると思います。そうしたイメージは個々人の経験に基づいているからです。
全ての言葉の意味が経験と紐づいているわけではありませんが、少なくとも経験と紐づいた言葉はその言葉が指し示す意味やイメージの範囲は異なっていると思います。無限に存在する経験を有限数の言葉で表現しようとすれば、個人内でも個人間でも言葉の意味合いを完全に一致させることは難しいと思いますし、経験のある部分は言葉では表現しきれないということもあるのではないかと思います。
3.言葉の意味を確定させる作業
言葉には個人的な意味合いと社会的な意味合いがあります。自分しか見ることのない日記だったり詩などの自己表現であったりであれば、言葉の意味を定義する必要なあまりないと思います。どんな言葉にどんな意味を与えるか完全に自分の自由にできます。もちろん、あまりに突拍子のない意味を含ませると後から見た時に自分でも意味がわからなくなることもありますが。それに対して、他者とのあいだで言葉を使おうとする時には、ある程度言葉の意味を限定する必要があります。自分にしか通じない意味で言葉を使っても当然相手には伝わらないからです。
ここで難しいのは辞書的な意味合いで、ある言葉を使ったとしても十分なコミュニケーションになるとは限らないということです。ある言葉に自分なりの意味があるように、他者には他者なりの意味があって、それとはまた別に辞書的な意味もあります。ニュアンスを含む意味の微妙な違いがあるために、同じ言葉を使っていてもやりとりに微妙な齟齬が生じることはよくあると思います。
また表現したいことがどれくらい表現できているかという点では、辞書的な意味合いで言葉を使えば他者にも意味のとおりはよくなると思いますが、そうすると自分が表現したいことをうまく表現できなくなってしまうこともあるかもしれません。
言語的なコミュニケーションは自分が表現したい事柄を伝え合うことも重要な要素ですが、同時にお互いのあいだで使われている言葉の意味をやりとりを通して確定させていくことももうひとつの重要な要素だと思います。多くの言葉は基本的に多義的なもので、どんな意味合いでその言葉が使われているかを確定させるためには、その言葉がどんな文脈で使われているのかを考える必要があり、その時の使われ方にその人の個性が表れます。自分の意味と相手の意味を交流させて、その場におけるその言葉の意味を確定させる作業を行うことで齟齬の少ないコミュニケーションになっていきます。
こうした作業は日常的なコミュニケーションでも行われていますが、あまり厳密なものではなく、なんとなくわかったような感覚になっていることが多いと思います。全てのコミュニケーションで厳密に意味を確定させようとしたら時間がいくらあっても足りませんし、多くはなんとなくでも特に問題は生じないと思いますが、コミュニケーションがうまくいかない時には意味の確認作業に時間をかけてもいいかもしれません。
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「文責:川上義之
臨床心理士、公認心理師。病院や福祉施設、学校などいくつかの職場での勤務経験があり、心理療法やデイケアの運営、生活支援などの業務を行っていました。2019年に新宿四谷心理カウンセリングルームを開設、現在は相談室でのカウンセリングをメインに行っています」
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