自己と他者が重なる領域、自己理解と他者理解
1.理解の内容と個性
前回のブログでは人が物事を理解する形式の中の論理的理解と直感的理解について書きました。論理的理解は物事の起こりと結果について根拠を用いて説明しようとする理解の仕方です。それに対して直感的理解はうまく言葉にはできないけれども、なんとなくあるいは確信のあることもあると思いますが、これはこういうことだと感じられるような理解の仕方です。
自分がわかったことを他者に説明する場合には、論理的理解の方が伝えやすいことが多いと思いますし、直感的に理解した事柄に対して後から論理的な説明を加えることが可能なこともありますが、直感に対して論理が優れているというわけではなく、どちらも人が自分や他者、外的世界を把握・理解するために必要な方法なのではないかと思います。
ところで、物事を理解するときにはどのように理解したかという形式だけでなく、どんなことを理解したかという内容を伴っていますが、同一の対象であっても理解される内容は異なることが少なくありません。たとえば、お腹に違和感を覚えた時に、空腹と理解されることもあれば、腹痛と理解されることもあります。こうした違いはその時のお腹の違和感を理解するための前提や文脈が異なるためです。
この場合の前提とは、持っている知識やこれまでしてきた経験、物事を認識する際の癖などが該当します。人それぞれ異なる前提をもっているため、同じ現象に出会ったとしてもそれに対する理解の仕方は異なります。
数学などのように答えが一致するように構築された理論体系もありますが、日常的に出会う事柄の多くはそのように理論立てられているわけではないので、論理にしても直観にしても理解される内容には、理解しようとする人の個性が表れます。
2.他者理解に関わる自己の要素
人が何か理解するいう時その対象は無数にありますが、今回は人が人を理解することについて考えてみたいと思います。
人が他者を理解しようとする時にその理解のための材料となるのは相手が表している情報になります。表情や服装などの視覚的情報、話す内容や声のトーンなどの聴覚的情報、そのほか相手の匂いや、触れていれば皮膚感覚など。人は視覚・聴覚が優位に働きやすいので、それらの感覚からの情報が理解のために用いられることが多いですが、場合によっては嗅覚や皮膚感覚が重要な情報になることもあります。
相手が表している情報をそれぞれの感覚が知覚することで相手を理解・判断するための過程が始まるのですが、相手からの情報のみでその相手のことを理解しているわけではありません。知覚した情報を自分がどう解釈するか、相手とはどんな関係なのか、相手や情報に対してどんな情緒が生じているのかなどが相手を理解することに影響します。つまり他者を理解しようとする時には、相手をそのまま理解しているわけではなく、そこに自分という要素が加わってきます。
わかりづらい表現かもしれませんが、たとえばよく喋る人がいたとして、その相手に好印象をもっていたら楽しい人と理解するかもしれませんし、悪印象をもっていたらうるさい人と理解するかもしれません。この場合は相手に対して自分が抱いている感情が相手を理解するかに影響していると言えます。
他者を理解することに対して自分の個性は強く影響します。上には感情が影響する例を挙げましたが、好悪の感情は比較的意識しやすいものになるかもしれませんが、中にはほとんど意識されないけれども強く影響するものもあると思います。また何かひとつの要素だけが影響しているわけではなく、様々な要素が同時に影響を与えているため、他者を理解するというのはかなり複雑な過程になります。
3.他者理解と自己理解
前項で考察したように他者の理解に自己の要素が加わるとするなら、他者を理解した内容というものは、その他者の要素と自己の要素が混ざり合ったものということになります。相手に立場になって考えるという言葉がありますが、これは相手だったらどう感じるかということと、自分が相手の立場だったらどう感じるかということの両方が含まれていると思います。意識するにせよしないにせよ、他者を理解する時にはどんな時でもそれが行われているのだと思います。
ただ、他者の要素と自己の要素がどのくらいの割合で混ざり合っているのかということは簡単にはわからないことです。他者の要素だけで相手を理解することはないと思いますし、理解という行為が相手を知覚することに基づいているなら100%自己の要素だけということもないでしょう。他者と自己のベクトルの間のどこかに理解のポイントがありますが、数値化して見えるわけではありませんし、見分けることが難しいこともあると思います。相手のことを理解していると思っていたけれど、実はそうあってほしいという自分の願望だったということもあるかもしれません。
他人と自分はそれぞれ独立した別人格ではありますが、人人が関わり合う時、少なくとも相互の理解という点において自他の混ざり合った領域が生じますし、その領域では自他の区別が不明瞭になります。相手の性質だと感じられていることが自分の性質であったり、反対に自分の性質と感じられることが相手の性質であったりすることがあります。
関りが深いほど自他の境界が曖昧な領域は広くなるように思います。子どもが親と同じような性質を具えていることがあるのは、行為の模倣や共通の環境で生活していることもあると思いますが、特定の性質が自他の未分化な領域で共有されることでその性質が取り入れられるということもあるかもしれません。
自己と他者が完全に重なってしまうことはありませんが、共有されたり境界が曖昧になったりすることで自他の重なりが生じることはあるように思います。そう考えると部分的にではあっても他者を知り理解することと自己を知り理解することは関連していると言えます。自他の重なりを分けることは容易でないことも少なくないですが、自己理解を深めようとする時には、自分が他者をどう理解しているのか考えることが有益になることもあるのではないかと思います。
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「文責:川上義之
臨床心理士、公認心理師。病院や福祉施設、学校などいくつかの職場での勤務経験があり、心理療法やデイケアの運営、生活支援などの業務を行っていました。2019年に新宿四谷心理カウンセリングルームを開設、現在は相談室でのカウンセリングをメインに行っています」
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